運がいいってどういうこと?
「この人生をどう生きるか」という人間学をテーマに42年もの間、発信し続けている「致知」という雑誌があります。毎月テーマを決めて、各界で活躍している人の考えや生き方を掲載してるのですが、2025年4月号では「運」について取り上げていたので、ちょっと私なりに考えてみました。
宝くじが当たったらそれは「運がいい」っていいます。「それはそうでしょ、大好きな生ハムが好きなだけ食べられるんですから」と、わたしは安直に考えてしまうのですが、実際には、宝くじの高額当選者には、当選後、色々と苦労をされる方も多いようです。金銭感覚のマヒであったり、親族間のトラブル、ギャンブルに依存するなど、降ってっ湧いたお金の扱いに翻弄されてしまうようです。
「羨ましい運と、羨ましくない運」
致知を読んで思うのですが、「運がいい」っていうのはどうやら2種類あって、一つは「とっても羨ましい運がいい」と、もう一つは「羨ましくないけど運がいい」が、あるように思います。後者は「なんのこっちゃ?」ですけど、具体的に言うと「羨ましい運がいい」というのは、さっきの宝くじみたいな、偶然の、誰から見ても羨ましい、という運がいい。
「羨ましくないけど運がいい」は、よく道を歩っていて、犬のウンチを踏んだり、鳥のウンチを落とされたりすると、「運が付いたんだ」って言いますね。あれって、外から見て羨ましくないことの解釈を変えて前向きに受け取っているわけです。これも「運がいい」です。
「そりゃ、こじつけだ」って言われそうですけど、致知に登場されるような一流といわれる人たちは物事の解釈がものすごく前向きです。
三浦綾子さんの生き方
一つ例をあげると、「氷点」という小説を書いた、作家の三浦綾子さんという方がおられました。三浦さんは24歳で突然高熱に倒れたのが発端で、肺結核を患い13年もの間、闘病し、さらに脊椎カリエスという病気が併発します。ギブスベッドに固定されて首以外は動かせず、毎日天井を見上げるだけの生活で、排せつも含め、すべての世話をお母さまがされたそうです。そんな生活が4年間続いたのち結婚、少しずつ病魔は快方に向かい、小説「氷点」が懸賞小説に当選して、小説家の道がひらけます。ところが、その後も「紫斑病」(しはんびょう)、「喉頭がん」(こうとうがん)、「帯状疱疹」が顔面に発症、それが治ったと思ったら大腸がん、それからパーキンソン病。人生を呪ってもおかしくない状況で三浦さんは言ったそうです。
「神様が何か思し召し(おぼしめし)があって私を病気にしたんだと思っています。神様にひいきにされていると思うこともあります。特別に目をかけられ、特別に任務を与えられたと・・。いい気なもんですねえ」って。
どうでしょう、はたから見たら、どう考えても運の悪い状況で、「神様にひいきにされている」とおっしゃってる。わたしには到底真似はできないですが、三浦さんの言葉から学ぶべきことはたくさんあるように思います。
わたしたちは既に運がいい
わたしたちは日本という国に生まれました。この国は、戦争のない国です。スーパーに行けば食べ物が売っている。子供たちは学べる場所がある。これって「ものすごく運がいい」、って言えます。宝くじが当たらなくても、わたしたちは運がいいんです。
言い換えれば、今有るものに目を向けて、今有ることに感謝する。そうすればわたしたちは、たちまち運がよくなれるってことですね。ちなみに逆もあると思うんです。今有るものに感謝せず、いつも不満や愚痴を口にしていたら、例え宝くじが当たっても不満ばかりが出てきます。それって結局、運が悪い人です。
これ、わたしにとっては屁理屈じゃなくて、「運」というのはそういうものだって思うようになったんです。今に感謝しながらひたむきに努力を続けていって、ふと自分の人生を振り返ったら、「めちゃくちゃ運が良かったなあ」って思うものじゃないかなあ、と。
わたしの自慢にならない過去たちも、今思えば「あのことがあったからこの仕事を選んだ、人の痛みが分かってあげられるようになった」。わたしはとっても運がいいじゃないって。
最後に、もう一つ、三浦綾子さんの言葉を紹介して終わります。
「九つまで満ち足りていて、十のうち一つだけしか不満がない時でさえ、人間はまずその不満を真っ先に口から出し、文句をいいつづけるものなのだ。自分を顧みてつくづくそう思う。なぜわたしたちは不満を後まわしにし、感謝すべきことを先に言わないのだろう」
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